慶応4年1月3日(1868年1月27日)、戊辰戦争が
開戦、間も無く、徳川方の尼崎藩(現・兵庫県)を
牽制するため、明治新政府は備前藩に摂津西宮
の警備を命じた。備前藩では1月5日(1868年1月
29日)までに2,000人の兵を出撃させ、このうち家
老・日置帯刀(へきたてわき)率いる500人(800人
説もある)は、大砲を伴って陸路を進んだ。
この際、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の兵庫
港(現・神戸港)開港に伴い、大名行列と外国人の
衝突を避けるために徳川幕府によって作られた
「徳川道」を通らず、西国街道を進んだことが事件
の引き金の一つとなってしまう。
1月11日(1868年2月4日)13時過ぎ、備前藩兵の
隊列が神戸三宮神社近くに差しかかった時、付近
の建物から出てきたフランス人水兵2人が列を横
切ろうとした。これは日本側から見ると武家諸法度
に定められた「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に
無礼な行為で、これを見た第3砲兵隊長・滝善三
郎正信が槍を持って制止に入った。しかし、言葉
が通じず、強引に隊列を横切ろうとする水兵に対
し、滝が槍で突きかかり軽傷を負わせてしまった。
これに対していったん民家に退いた水兵数人が
拳銃を取り出し、それを見た滝が「鉄砲、鉄砲」と
叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲、銃
撃戦に発展した。
事件の推移
この騒ぎを聞きつけ
たイギリス公使ハリ
ー・パークスは激怒
し、折しも兵庫開港
を祝って集結してい
た各国艦船に緊急
事態を通達、備前藩
兵隊に向けて威嚇発
砲を行わせた。このと
き家老日置が藩兵隊
に射撃中止・撤退を
命令、お互いに死者
も無く負傷者もほとん
ど無かったために一
度は事無きを得たか
に見えた。
ところが翌1月12日(1868年2月5日)、神戸に領事
館を持つ列強国艦船が陸戦隊を上陸させて居留
地防衛の名目をもって神戸中心部を軍事統制下
に置いてしまう。この時点で朝廷は諸外国に対し




